自分のため・ひとのため

美容誰でも「綺麗」が好きである。部屋は汚い方が落ち着くというひともいるが、万事汚いほうが何につけよろしいと言うひとは滅多にいない。ひとは何かしら綺麗なものに目を奪われ心を奪われるものだ。そうしたものに惹きつけられるのは、やはりそれを見ることにより一種の感動や快感が沸き起こるからであろう。

ひとについても言わずもがな、街中ではっと目を引く美男や美女は忘れがたいときめきを覚えるものだ。そのときめきだけで、フラフラと後をついて行きたくなることさえある。時にそれは一目ぼれと呼ばれ、ひょんなことから恋愛関係にまで発展するというのも良く聞くはなし。「綺麗」へ向けられる衝動とはなまじっかなものではないのだ。

あなたは「ひとを見た目で判断してはいけない」と言うかもしれない。ごもっともだ。しかしながら、近年では当たり前ともなった「美しい地球を守ろう」「綺麗な環境をこどもたちへ残そう」といった類の環境美化に関するスローガンを考えてもみて欲しい。

美しさや綺麗さというのは、「意識的に」維持・改善されるているものなのである。その景観の美しさを求めて、多くの人が例えば富士山へ向かう。ひとが多く踏み込めば、それに従いゴミなども多くなり環境が荒れる。日々その美しさを保つためには、善意の人々の努力や協力が欠かせない。何もしなくても「綺麗で在り続ける」なんてそんなウマい話しはないのだ。日本一の富士山でさえもそうなのだ。人間だけが例外なんてことはない。

美容綺麗であると、良いことは沢山ある。まず自分が自分に対して抱く嫌悪感の軽減が期待できる。その為、自信が出る。自身があれば、つまらないことで自意識過剰になることもなく堂々としていられる。そうすると、コソコソしていたいつもの街歩きでも堂々と道の真ん中を闊歩出来るようになる・・はずである。ひと目に自信満々に映る私は、或いは異性に思わず声を掛けられるほどの存在感を放つかもしれない。つまり、モテるかもしれない。

美容以上、私が綺麗にしていると良いことがあるという気がする安直なメリットである。しかし、どちらにしろ「綺麗」とは自己管理ということに尽きるだろう。成長するにつれて出来上がっていく容姿は、生まれつきの見てくれとはまた違うのである。遺伝の多分な要素はもう誰も責めてはいけない。しかしながら、後天的な「綺麗」については自身の責に帰すのだ。清潔感を著しく欠くと判断され異性にモテないひとを何人も見てきた。私は同じ轍は踏んではいないし、今後も踏むことは無いと心に固く誓う。

健康な毎日のために
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